コンヴィヴィアル・テクノロジー
2025.01.12
イリイチは「コンヴィヴィアリティのための道具」の中で、道具によって拡張する第一の分水嶺、力を持ち過ぎ、人間から主体性を奪い隷属させてしまう行き過ぎた第二の分水嶺があるとし、一つの分岐点ではない「二つの分水嶺」という捉え方により、不足と過剰の間で、適度なバランスを保つことが重要であると述べている。
そして「コンヴィヴィアル・テクノロジー」の中では、イリイチの当時の視点を現代に置き換え、道具としてのテクノロジーに関して、次のように問いを投げかけている。
いま、テクノロジーは、人間から自然環境の中で生きる力を奪い、他にかわるものがない独占によって人間を依存させ、人間を操作し思考停止させ、二極化と格差を生み、次から次へといまあるものを陳腐化させてはいないだろうか。そして、そんなテクノロジーを、わたしたちは受け入れているようでいて、実のところフラストレーションや違和感を感じているのではないだろうか。
(緒方 (2021) 『コンヴィヴィアル・テクノロジー』, p.53)
人間が人間の本来性を損なうことなく、テクノロジーと共に生きる社会を実現していくためには、つくり手自身が、つくることの意味を問い直すことが重要であると言える。
近年でも、ChatGPT2やStableDiffusion3などの生成AIの台頭により、社会に大きな変革をもたらしている一方で、文部科学省による利用ガイドラインの策定や、利用許諾を得ていない既存画像を学習モデルに利用されている問題も発生している。
コンヴィヴィアル・テクノロジーの主張では、<飛躍的に発展したテクノロジーに対して巻き起こっている課題に目を向け、これからのテクノロジーのあり方の指針>を示している。その上で、緒方さんはテクノロジーを否定するのではないとも述べている。
あらゆるテクノロジーを否定し、すべてをなかったことにして原始的な生活に戻ろうと言いたいのでもない。いま再び度を超えた「過剰なテクノロジー」の時代にあるのであれば、ここから先さらにそれを推し進めていくテクノロジーではなく、「いまここ」から再び、これまでの逆の方向へ向かうためのコンヴィヴィアルなテクノロジーによる反転の可能性を改めて考えたいのである。
(緒方 (2021) 『コンヴィヴィアル・テクノロジー』, p.62)
例えば、中国では2016年ごろから「自由駐輪シェアサイクルサービス」が爆発的に広がり、多くの民間企業がサービス提供を開始した。都市部の排気ガスを軽減する効果を期待されていたものの、2017年には数万台の自転車が無秩序に放置され「自転車墓場」と呼ばれる深刻な社会問題を引き起こした。
緒方さんが参照しているイリイチはコンヴィヴィアルな道具として自転車を例に挙げている一方で、2017年には上記に挙げた「自転車墓場」と呼ばれ深刻な社会問題を引き起こす道具と化している。
シェアサイクルの「過剰」な問題に対して、一方的な抑制や制限ではなく、データを活用し最適化をすることで自転車を取り巻く生態系全体の「二つの分水嶺」のちょうど良さを取り戻しつつある。
自転車の事例からも、自分が研究で扱っている「ソーシャルメディアやWebサービスの機能性や道具としての側面だけでなく、他のあらゆる側面、その弊害に目を向ける重要性」が示唆される。
また、そういった弊害、例えば過剰な誘導に目を向けることは、サービスの本質的な価値を高め、長期的に利用者から好かれることに繋がっていく。
自分の取り組みの中でも、ソーシャルメディアやWebサービスを取り巻く「サービス提供者」「ユーザー」などの生態系全体への影響を考慮しながら、「人に意識的な判断を促すための (コンヴィヴィアルな) テクノロジーのあり方」について考えを進めていきたい。
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